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アヤメの記憶 【モノローグ】

今年の梅雨に、自宅の庭のアヤメが咲いた。
僕自身はここ2~3年ほど、お店の開業から撤退へと相当に濃密で凝縮された時間を過ごしていたので、好きなアヤメを愛でる余裕もなかったから、もしかしたら昨年も一昨年も咲いていたのかも知れない。いや、でも好きな花が咲いているのに気付かないほど鈍感でもないから、たぶんやっぱり数年ぶりの開花だったのだろう。

「咲かない年が何年も続くときもあるんだよ。だから咲いたときは、ほんとに嬉しいんだよ。」「人間と同じ。」
そう教えてくれたのは、6年前に他界した母だった。
亡くなるまでの約8年間に及ぶ、腎不全による人工透析生活に入る以前は、僕ら一家が成田市内からこの霞ヶ浦周辺の水郷地域に引っ越したのをきっかけに、何度かアヤメの本場の潮来や千葉の佐原周辺の「あやめ祭り」や「水郷水生植物園」に連れて行ってあげたものだった。

 

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6月生まれの母にとって、「アヤメ(花菖蒲)」はとにかく特別な存在の花だったようで、アヤメの話をし始めるともう止まることを知らなかった。それくらいアヤメが好きだった。
病状が悪化するにつれ自力歩行が困難となり、いよいよ車椅子生活となった年の「梅雨」を迎えるのが寂しくて仕方ないと、時折訪ねた介護施設の部屋で力なく語っていた。

当時成田空港に勤務していた僕は、その年の母の誕生日が来る前の週、早番勤務の会社帰りに、10種類は越えていただろうか、とにかく出来るだけたくさんの品種のアヤメを水生植物園の売店で買って、自宅に持ち帰った。記憶が定かではないが、その日の夕方だっただろうか、それらを中くらいの5つか6つあるプランターに川砂だか山砂を使って、等間隔で三株ずつ植えていった。当時小学生だった長男も、不器用なりに一緒に植え込みを手伝ってくれた。
翌日、僕はそれらを全てワゴン車に積み込んで、埼玉県内の実家からほど近い母がお世話になっている施設へと、運び込んだ。正確には全部ではなく、積載スペースの関係で、プランターが一つだけ自宅に残ったのだった。

周りを田園で囲まれた快適な施設ではあったけれど、大人の足ですくっと立たなければ窓から景色を望むことは難しい。そんな事情だから、週に三回の人工透析に病院に出かけるときくらいが、病状が進行しつつある母にとっては唯一外界と接する機会だった。
実を言うと、「ミニ菖蒲園を作ってやろう」と、僕はずっと考えていた。幸いベランダにそれなりのスペースがあったので、そこにアヤメがところ狭しと植え込まれたプランターを運び入れ、介護用のベッドから見える角度で配置した。
「もう、アヤメは切花か造花でしか見られないと思ってたけど.. ありがとう」と言って、母は泣いて喜んでくれた。窓の外では、これから咲こうとしている沢山の若く元気な膨らみかけた花芽たちが、降り注ぐ雨の雫を身にまとい、日々衰えゆく母とは対照的な姿を見せていた。

翌年の春に、二度目の「ミニ菖蒲園」を見ることなく、母は亡くなった。
「戒名をお付けするにあたり、故人にゆかりのあるものはありますか?」と、菩提寺の住職に尋ねられた。兄妹にも納得してもらった上で僕の希望を伝え、花や草木の中でもとりわけ「アヤメ(花菖蒲)」が大好きな人だったので、戒名に「蒲」の一文字を入れてもらった。
『蒲帆靖寧信女』。好きだったアヤメが咲き誇る水郷地域をイメージさせる、そんな素敵な戒名を戴いた。

「ミニ菖蒲園」は、その後遺品を整理に訪れた際、水やりをしてくださっていた施設の職員さんたちに分けて引き取ってもらった。なので、それぞれが今はどうなっているかはわからない。ただあの日、車に積みきれずに自宅の庭に置かれたプランターから、綺麗な淡い紫色のアヤメが、今年も咲いた。

この季節、アヤメを見ると、母の記憶ばかりがよみがえる。

「ありがとう」って、なんだかわけもなく呟いてみる。