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Coffee Break ~ Vol.19【小説『永遠の仮眠』】

2月下旬に発売された、多くの国内アーティストを大ヒットに導いたビッグ・プロデューサーであり作詞家でもある「松尾潔」氏による、初の書下ろし長編小説『永遠の仮眠』を読み終えた。

 

 

音楽制作者・ラジオDJをはじめマルチな才能で知られる松尾氏の、実に多面体な魅力の中でも、僕自身が最も敬愛してきたのは、松尾氏が学生時代から執筆していた SOUL/R&B 分野の洋楽CD(レコード)の「ライナーノーツ」上で見ることのできる、年齢にそぐわぬほどの豊富な「知見」であり研ぎ澄まされたその「感性」だ。時にはカジュアルな表現を用いることがあっても、総じて流麗な表現や美しくメロウな比喩と文体で埋め尽くされた数々のライナーノーツの読後感は、良質な小説のそれと変わることがなく、幸運にも携わった海外アーティストのCDやレコードの日本国内でのセールスに、想像以上に大きく寄与してきた事実は誰もが知るところだと思う。予算的に厳しくとも、彼のライナーノーツ読みたさに、割高な国内盤に多くの好事家が手を伸ばすのには、そんな確かな理由があった。

2014年に出版された、真摯な音楽論にして貴重な1990年代現場証言集であり、最高にして最強のR&B書の呼び声も高い『松尾潔のメロウな日々』(通称:赤メロウ)、そしてその翌年に出版された『松尾潔のメロウな季節 (Rhythm & Business)』( 通称:青メロウ) もまた、R&Bヒストリーに輝くアーティストたちの光と影を見つめた珠玉のエッセイにして、真摯な音楽評論集として、R&B愛好家の間ではもはやバイブル化しているのはよく知られている。とはいえ、小説を書くことには最初は乗り気ではなかったという松尾氏が、時を隔てて「藤田宜永」氏「白石一文」氏といった二人の直木賞作家から強く執筆を薦められ、10年以上の歳月を経てようやく形になったのがこの『永遠の仮眠』だということが、出版直後にラジオ等でのプロモーションを兼ねた幾つかのインタビュー等で明らかにされている。

 

 

小説『永遠の仮眠』を読み終えて

「物語をつくることにこそ興味がある」という著者による本作品は、売れっ子小説作家が取材を続けた末に書き上げたような「職業小説」とはわけが違う。実体験としてその業界の現場で長く活動を積み重ね、そして栄光も辛酸も舐めてきた自身を投影させたに違いない、一人の音楽プロデューサー「光安悟」という主人公を取り巻く周辺の人々による味わい深い「群像劇」でもある。

フリーの音楽プロデューサー・光安悟
人気TVドラマの主題歌での復活を望むアーティスト・櫛田義人
ヒール役のTVドラマプロデューサー・多田羅俊介

ダメ出しに次ぐダメ出しの連続
期限に間に合うのか
苦しみと葛藤
関係者との駆け引き
家庭人としての悟
長い不妊治療の末に愛妻・紗和が懐妊
そして東日本大震災が発生
彼らの行く末はいかに

仕事とは
成功と挫折とは
夫婦とは
家族とは
幸せとは
社会とは
政治とは

それぞれの正義。それぞれの幸せ。

そんな言葉たちが、読み進めながら常に脳裏をかすめていく。

流麗な文章に常に纏わりつき、漂い続ける音楽的なリズムやフロウは、音楽人である松尾氏ならではのもの。

これから読まれる方に一つだけ著者からの大切なメッセージを伝えることができるとしたら、最終章で描かれる主人公はもちろん彼の周辺の人々其々に始まっていく、新たな人生のストーリーではないだろうか。本作のラストシーンでは、この国の『ポピュラー・ミュージック』を創り上げてきた請負人の一人である松尾氏だからこそ成し得た、美しくも希望に満ち溢れた描写で幕を閉じることになる。この感動的なラストシーンは、クラッシックでもジャズでも不可能だ。なんという清々しい読後感だろうか。これはもう、最後まで読み終えて体感していただくしかないだろう。

 

『松尾潔のメロウな夜』(NHK-FM 3月1日/3月8日放送)
秀島史香さんを迎えての対談「メロ夜ブッククラブ」より一部抜粋。

「有事の中における文化」
「Emergency & Entertainment」

例えば、今コロナ禍で国難という状況にある時には「不要不急」で片付けられてしまったり、「エンタテイメント」は「エッセンシャル」ではないという評価をされてしまう。実のところ「エンタテイメント」はこれまでもずっと「エマージェンシー」と対峙してきているもの。事実でないスキャンダルに巻き込まれてしまうことで、自分のラブ・ソングを聴いてもらえなくなってしまったり、「エンタテイメント」ってほんの何かがきっかけでパタッと急に終わりを突き付けられる瞬間がある。そもそもそういう表現領域であるからこそ、だからこそそこに尊さを見出して、多くの人の憧れの対象となっているんだと思う。「エンタテイメント」というのは常に終わりを含んでいるということが、このコロナ禍で浮き彫りになってしまったのかもしれない。「例えば必ず終わりが来るサーカスの興行のように、観衆や聴衆はその終わりを見届けてみたい、目撃してみたいという願望を無意識のうちに内包しているのかもしれない。」「誰々のラストアルバムですって告げられた瞬間に、じゃあ買ってみようかなと思ってしまうのは、その発露だと思う。」のくだりには、ハッと息を呑んだ。

「過去は変えられないけれど、過去の意味は変えられる。それはこれから作り出す未来によって、過去の意味づけを再定義していくこと」

この対談の中でも、そしてそれまで何十年間も彼がラジオで言い続けてきた「過去は変えられる。過去こそ変えられる」の意味をはっきりと理解できるに至ったのは、一昨年前に始まった『松尾潔のメロウな夜間授業』の初回講座での、故向田邦子氏の言葉を伴う解説を伺ったときだった。僕にとっては、もはや「座右の銘」みたいなものだけれど、奇しくも今日は、あの未曽有の東日本大震災から10年目の区切りの日。松尾さんの言葉に嘘はないと思う。

 

 

 

久々のブログの更新で、長くなりました。
最後までお付き合いいただきまして感謝いたします。
まだもうすこし「三寒四温」の日々が続きますが、皆様におかれましては体調を崩されぬよう、くれぐれもご自愛ください。

 

_________________ 追記 __________________

松尾さんが当記事を紹介してくださいました。いつも有難うございます。