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『喫茶 こもれび』との出会い

今日は、この「地球」という水や自然に恵まれた惑星の中で、僕が最も愛するかけがえのない大切な場所を紹介したいと思います。先にお断りをしておきますが、それゆえ超長編になりそうですがしばしの間お付き合いを・・

『軽井沢』といえば、日本だけでなくもうすでに国際的にも認知された避暑地でありリゾートであることは、周知の通りなので、もはや余計な説明は要りませんね。

『喫茶 こもれび』は、軽井沢の南の端っこ「レイク・ニュータウン」にほど近い町道沿いの雑木林の中に、今から28年も前からそこに静かにそしてひっそりと佇んでいました。
お店に隣接して、『工房 こもれび』があり、民芸品やお店で使用する道具や置物などの木工製品も製作販売していました。

「あれっ、あんなところにお店なんてあったっけ・・」 店の前を車でいったん通り過ぎ途中で引き返して来て、「ガラガラ」と初めてそのお店のガラスの引き戸を開けてから、もうすでに25年以上の歳月が流れてしまったんですね・・・
とにかくお店の中に入ると、格子のガラス窓を通して敷地に隣接した池を臨むテラス席が目に飛び込んできたのを、今でもはっきりと思い出せます。ちょうど秋も深まりつつある頃で、あたりが少しずつ暮れ始めるような時間で少しだけ軽井沢名物の「霧」が出始めたような、ちょっとばかり幻想的なシチュエーションだったと記憶しています。
どうしてもテラスで珈琲がいただきたくなってしまった僕に対応して下さったマスターご夫妻やスタッフの方も、肌寒いのを気遣ってお客様用のブランケットや真っ赤なスウィング・トップを羽織るよう勧めてくださったりと、決しておしきせでないのにほっこりと温かいサービスに、その時初めて触れることができたのです。
それまで生きてきて、お客の立場としてほとんど遭遇することのなかった、お店が発している「温もり」のようなものを、当時店内にもあった薪ストーブのような暖かさと共に、ジワジワと感ることができました。

とにかくすべてに感動した僕は、その後周囲の友人・」知人に『こもれび』っていうすごい喫茶店が軽井沢にあるんだよと、ひっきりなしに語っていたものです。そしてそれからというもの、大学を卒業して社会人になってからもずっと、主に秋の紅葉が美しい時期を含め毎年一・二度は、その時の僕にとって大切な人や友人を連れだってお邪魔するようになっていくのでした。

でも僕はその頃の時点では、なりたての社会人で仕事を覚え先輩たちに付いていくのが精一杯の毎日だったので、そのとき自分の心の中にそっと埋め込まれたその『種』が一体何の種であるのかは、僕自身もまったく分かっていなかったようだ。

 

komorebi.jpg開業初期の『こもれび』さんのテラスからの眺め

 

社会人となって二年目、当時新卒で入社した国内大手のエア・カーゴ(国際航空貨物輸送)の会社で、入社前から念願だった1年間限定の「海外研修生」を飛び越え、三年目からいきなりニューヨークに本部を置く米国の海外現地法人駐在の内辞を言い渡された。当時の僕の夢は、子どもの頃から「いつか外国で、できればアメリカの経済・文化の中心ニューヨークで働きたい」といったものだった。コネも何もないところからコツコツと自分なりに努力してきて、もうすぐ「夢が実現するんだ!」といった高揚感で溢れていた頃だった。

そしてその半年後、父親が急逝した。まだ54歳だった。厳しい人だったけど、人生においていつも折りに触れ大事なアドバイスをくれた人だっただけに、残念でならなかった。
一歳上の兄や母親に「今、外国なんかに行かれたら困る・・断れないものか・・」と懇願され正直かなり困惑した。当時の僕はまだ24歳で、五歳下の妹はまだ高校を卒業し短大に入学したばかりだった。当時の上司に事情を話し、大手町にある本社勤務から、実家から通勤できる埼玉に近い営業所に異動できないものかと相談した。「このままアメリカに行くか、会社を辞めるか、答えは二つに一つ。日本の企業はそんなに甘くないぞ。」と諭された。
そして僕は、その半年後の夏に会社を辞めた。と同時に、大きな喪失感と失望だけが僕の心の中に残った。

でもなぜか僕はいつも仲間に救われきたような気がする。というのも、「送別会をお前の好きなところでやろうよ」と、入社時から仲がよく独身寮で同じ釜の飯を食べてきた同期の連中が申し出てくれた。もちろん、「じゃあ軽井沢でもいいかな・・」と提案したのは当然の流れだった。約10名ほどの同期・後輩たちとプリンス・コテージで夜遅くまで飲み大いに語り合った。そして、最後は『こもれび』さんで最高の場所と時間を提供していただいた。あのとき過ごした時間のことは、いまだに付き合いのある古い友人たちもしっかりと覚えているという。そんなところが、『こもれび』さんのすごいところなんだと思う。その際、当時工房で仕事をしていたYさん(現在のマスター)とマスターの粋な計らいで焼いてくれた仲間たちのメッセージ入りマグ・カップは、今ではすっかり変色してしまったけれど、ずっと僕の大切な宝物となっています。

そんな仲間たちと同様に、それからもずっと、心がポッキリと折れそうになったときに必ずといっていいほど、『こもれび』さんは僕の傍でそっと支えてくれました。当時のマスターSさんだけでなくその親友で現在のマスターYさんのお二人には、いくら感謝してもし足りないほどです。本当にありがとうございます。

 

2011-02-11 00.29.40
これがその大切な、だいぶ色褪せてしまった「寄せ書き マグカップ」なんとも懐かしい

 

いつか文字にしてみたいとなんとなく思っていたせいか、身の上話が長くなってしまいました。なんだか、こうすることでやっと吹っ切れたような気がするのは気のせいだろうか。まっ、自分のブログだからいいか・・」
『喫茶 こもれび』さんは、その後マスターのご家族が都内に移り住むことになったのを機に、店名を『ばおばぶ』と変え、お店の経営は一時的に、僕には面識がまったくなかった、マスターの知人の方に移ることになりました。

その後の展開は、また次回に。

 

注: 記事にするにあたりGoogleで検索しましたら、現在同名のお店が静岡県島田市に存在するようですが、そちらとは一切関係がございません。