日本列島がまるで「冷蔵庫」の中にでも、すっぽり入ってしまったかのようなここ数週間の気候で、もとより寒さが苦手ではない自分でも、少々辟易しているところだ。
そんなどんよりとしたお天気の中、もうかれこれ20年以上の付き合いになる知人から、ちょうど一年ぶりにメールが届いた。もう10年近く直接会ってはいないものの、なにやら落ち込んでいる様子で気に掛かる。
彼と僕とは、年齢も歩んできた業界も違うけれど、彼は入社以来25年以上が経過した大手電気メーカーでの本社や海外勤務を経て、数年前に傘下のグループ企業へ転籍し、誰の目から見ても「順風満帆」の会社員人生を歩んでいたように見えていた。そういう意味では、僕とは対極にあるのかもしれない。ところが最近になって、不本意な状況下に置かれているというではないか。なんでも、転籍先の上層部としっくりいってないという。今になって、会社員としての人生の厳しさを痛感しているという。
規模の大なり小なり組織の中で働く限り、「調和」であるとか「妥協」というものは、当然最低限は必要とされるのは、子供でさえも分かっている理屈だ。とはいえ、自身が「正しい」と信じたことに対して「筋を通す」ことに、いささかのためらいも必要なしと、僕自身は思っているし、そう実行してきた。判断基準は、その時点で問われている事象に対して、それが「正しい」か「正しくない」か、英語で言うところの「Do the Right Thing」、何も難解なことはなく、単純にそれだけだ。そうはいっても、実のところ「人は弱い生き物」で、「出世欲」だとか「職場の同僚や周囲への配慮」だとか、あるいは自身の「家庭や家族の事情」等々、言い訳となる多種多様な要因が身の周りに存在し、そういったものの数々が自身の判断を鈍らせるものだ。
人間は死期が迫ってくると、例えばある一つの「チャレンジ」を例にした場合、「やらずに生涯を終えてしまう」ことと、「やった結果、失敗に終わった」ことでは、前者の方が圧倒的に「後悔の念」が強く残るという。ならば、「言うべきことを言う」「正しいことを主張する」、せめてそうしなかったら、悔やんでも悔やみきれない自分の気持ちと、晩年対峙しなければならないのかもしれない。いずれにせよ、自身が下した判断によって導き出された結果が吉であれ凶であれ、最終的に自己責任が伴うのは言うまでもない。
僕自身、自分なりにやっとの思いで立ち上げてカタチとなった最愛のお店「Mellows」を失ってから、ちょうど5年の月日が経過したものの、自分の心の中の壊れた時計はあの日から時を刻むことを忘れてしまった。そして「無念」な想いはそう簡単に消え去るものでもない。人とのコミュニケーションにも、かつては感じたことのなかった「辛さ」が伴うようになって、もうずいぶん久しい。無形の「財産」とか捉えることもできるかもしれないけれど、いろんな意味で、得るものも多くあったのと同様に、失うものもそれ相応にあったのも事実だ。
とはいえ、何が正解で、何が不正解かなんて、その人だけが臨終の際に分かるものであって、誰にも決められないし、本人の考えがリスペクトされるべきなんだろう思う。唯一の事実は、人は過去にはもう戻れなくて、前に、未来にしか進めないということ。それが現実だということ。
今日の夕暮れ時の空のように、雲に隠れて沈みゆく美しい太陽が見えない日があるように、長い人生には、「晴れ」の日も「雨」の日も、そして予期せぬ「嵐」の日もあったりと、ひとつひとつやり過ごしていくしかないもの。落ち込むときは、とことん落ち込んだっていい。「トライ&エラー」を繰り返していくしかないのかな。
友よ、「いつか」自分にとって本当に大切なものが見つかることを、祈っています。そう言い聞かせている僕自身がここにいるのは、紛れもない事実だけれど。
さあ、それじゃあ Sinne Eeg(シーネ・エイ)のスロウなバラッドで、すこしクール・ダウン。「Don’t be so blue, please..」
“Don’t Be so Blue” – Sinne Eeg
(album: Don’t Be so Blue – 2010)
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“Don’t Be so Blue” – Sinne Eeg
(album: Don’t Be so Blue – 2010)